目病み女と傘の下

日常茶飯事

弱り目に祟り目

目供養にいったほうがいいだろうって、このあたりだと身代わり不動にでもいけばいいんでしょうか?

昨日、はてなブログを読んでいたら、人の幸せな状態をみて、勝手に被害者に、自分は不幸だと思うな?的なブログを読んで

確かに

って思いましたが、世の中の人、ほとんど、そうじゃない?って思いました。

自分ではかなり普通な状態でも、まわり多数からみたら不自然に幸せ、又は不当に幸せな状態なのではないか?と疑われ、逮捕されちゃう人だっているし、

私の家系や家計がわからないと不当に幸せにみえるようで、たぶん、私が
そういった話が苦手で、避けるためなのでしょうが、ほどほど幸せでほどほど悩みもあり、でも幸せな部分だけがもちろんブログになるわけでだから、陥れようという人にたくさん出逢いびっくりします。
 そして、こう書こうものなら、誰もあんたを羨ましくなんて思っていないという抗議でパンクするのです。
 いいたいこといってるだけ、そして勝手にブログを毎日見るなり、フォローするなり、また更新されたと通知セットするなり、
 そのめんどくさい力ってすごいなあって思います。見ない、無視する、その場から去るが一番、自分にとってストレスのない状態かなあと。
 生きていく上で完全に無視できるのがネットだと、働く、生きる、移動する、生活していて、テレビも見ないとイラッとすることも少ない。
 でも働くためにある程度、覚悟はしていますが。病んでいると医者はそれもさけていいという、働かず、外にも出ず、誰とも関わらなかったら病む要素がないといえば、それも極端で独居房と同じですからね、大概、散歩はしなさいとかできることからしましょうとかいわれますよね。
 そのぐらい一度、大縄飛びから抜けてしまうと、なかに入るのは困難で、慣性の法則があるから中の人は飛び続けるほうが楽で、外にいる人は自由そうにみえますが、それもどっちもどっちなんですよね。